弁護士には法的判断ができるのか

ルール懐疑主義

弁護士であり、芸人である、こたけ正義感先生のYouTubeチャンネルにおいて、あるコメントが紹介されていました。「なんでもリーガルチェック」という企画において、こたけ正義感先生が、バカと言われたことが侮辱罪に当たると述べたことに対して、〈有罪か無罪か、または何罪に該当するかという決定をする権限を有するのは裁判所であり、弁護士に判断できることではない〉という趣旨のコメントがあったようです1。このコメントに対して、こたけ正義感先生は、法と競技ゲームのルールとの類比により反論していますので、実際に動画を見ていただきたいと思います2

上記コメントに対しては、<裁判所が決定する前であっても、どのような行為が犯罪に当たるのか、何罪に当たるのかということは法律で決まっているはずであるから、弁護士も判断できると考えることには何の問題もない>と考えた方もいるかもしれません。しかし、上記コメントには、簡単に斥けることができない含蓄があります。例えば、ルール懐疑主義の立場からすると、弁護士は、裁判所が決定するよりも前に、「○○罪です。」と断定することはできません。

ルール懐疑主義とは、法に関する不可知論です。論者として最も有名なのは、アメリカ合衆国の最高裁判所裁判官であったオリバー・ウェンデル・ホームズでしょう。ホームズによれば、法学とは、「裁判所が実際には何をするのかの予測」にすぎません(法予言説)3。ルール懐疑主義者は、裁判所の判断に先立って定められており、裁判所を拘束するような法的基準は存在しないと考えます。裁判所は判決理由において法律から事案に適用される個別具体的規範を導出<=法発見>したかのように仮装していますが、実際には、裁判官が各々の利害関心に従って法であるところを決定<=法創造>しているに過ぎないというわけです。

ルール懐疑主義を前提とすると、弁護士は、<裁判所は有罪と言いそう>とか、<裁判所は侮辱罪に当たるという判決をすることはほぼ確実です>といった予測をすることはできるかもしれません。しかし、裁判官以外の一般市民の法的判断は将来の判決の予測に過ぎないため、弁護士は<有罪である>という断定することはできないということになります。

このようなルール懐疑主義は、法形式主義の否定です。法形式主義は、法律の文言の定義と、法的三段論法などの論理的操作とにより、あらゆる事案に関して法律からその事案に対して適用すべき法を発見できるという考え方です。これに対して、ルール懐疑主義者は、法形式主義と違って、裁判所の判断が法律から論理的に導出されるとは考えず、法はそれを創造する裁判官の心理から予測するしかないものと考えます。実際に日本の裁判においては、違憲無効・限定解釈や類推適用・拡張解釈などにより、<裁判所の判断に先立って法律に定められていた>とは思えないような基準に従って判決がされることもあります。実際の裁判実務は、法形式主義者が想定するほど単純ではありません。

そうすると、ルール懐疑主義にも一理あると思われるかもしれません。

法実証主義

現在の日本でも、法専門家が、<法的三段論法こそ、法的思考の基本である>などと言うことはよくあります。しかし、法専門家の間で、法形式主義が無批判に受け入れられているというわけではありません。他方で、法専門家の間でルール懐疑主義が広く受け入れられているわけでもないと思われます。現在の日本の法専門家の間で、自覚してか否かはともかく、広く受け入れられているのは、法実証主義という考え方です。法実証主義者は、法形式主義と違って、法律の文言の定義と論理的操作により、すべての事案について、形式的に個別具体的規範が導出できるとは考えません。かといって、ルール懐疑主義者と違って、裁判所の判断を拘束するものは何もないとも考えません。

代表的な法実証主義者であるH.L.A.ハートは、こたけ正義感先生と同じく、競技ゲームの例を用いてルール懐疑主義を批判しています4。ハートは、<いかなる場合に得点となるか>という<得点に関するルール>と、<得点記録員が得点を記録し、それに対しては不服申立てできない>という二次ルールのゲームを考えます。このようなゲームにおいても、得点となる場合かならない場合かということについて意見が対立する場合があることは想像に難くありません。しかし、このゲームに関し、ルール懐疑主義者がいうような〈得点とは記録員がそうだというものだ〉という考えを受け入れると、それは〈得点とは記録員がそうだというものだ〉というルールに基づく別のゲームでなってしまいます。なぜなら、「得点に関するルールにも、他のルールと同様、記録員が選択を行い得る綻びが周縁にあるものの、それでも意味の確定した核心部分があるから」です5。<記録員が、得点に関するルールの核心部分を無視して、得点を決めることができるというルール>によるゲームは、もはや<得点に関するルール>によるゲームではありません。

ハートは、競技ゲームの例のルールと同じく、法律の文言にも綻び(open texture:開かれた構造)があり、裁判官が法を発見しうるほどに意味が明確な核心(core)の部分と、裁判官が法を創造しなければならないほど意味が曖昧な周縁(penumbra:半影)の部分に分かれると考えます。この考え方からすると、法形式主義と異なり、法律の文言の核心部分に当たらないが、周縁部分には当たるという場合、裁判所が法創造を行うことを認めることができます。また、ルール懐疑主義と異なり、すべての事案で裁判官が法創造を行っており、法律に従っていると言えるような場合はないとまで考えなくともすみます。

さて、ハートのような法実証主義の立場からすると、刑法231条の「侮辱」のという文言の意味である<(事実の適示を伴わずに)他人の社会的評価を低下させる行為>という定義には核心部分があり、<他人にバカと言う行為>は核心部分に当たるということになります。そのため、上記コメントに対しては、裁判所による法創造を待たずして、弁護士などの一般市民が「侮辱罪に当たる」と判断することは問題ないと反論できることになりそうです。

……本当にそうでしょうか?

核心部分の曖昧さ

そもそも、法律の文言の意味が明確な核心部分と、意味が曖昧な周縁部分はどのように区別されるのでしょうか。さきほど、<他人にバカと言う行為>は、「侮辱」という文言の核心部分に当たるとしました。<他人にバカと言う行為>が「侮辱」に当たるということは、現在の判例理論を前提とすると間違いありません。しかし、法律の文言から一義的に明らかであるとは言えません。

侮辱罪の保護法益については、主観的名誉感情か、外部的社会評価かという学説の対立があります。保護法益に応じて、「侮辱」の定義も、<名誉感情を害する行為>と、<社会評価を低下させる行為>とのいずれであるのかが変わってきます。この点については、学者だけでなく、最高裁判所の裁判官の間でも、かつては見解が分かれていました。著名な刑事法学者であり、最高裁判所の裁判官でもあった団藤重光は、侮辱罪の保護法益について主観的名誉感情説を支持する個別意見を書いています6。また、外部的社会評価であるとしても、それは、事実的名誉か、規範的名誉かという点についても学説の対立があります。かつての最高裁判所の裁判官や刑法学者は、刑法231条の「侮辱」という文言について、意味が明確な核心部分すら分からずに争っていたのでしょうか。

また、侮辱罪の保護法益は、外部的社会評価であり、かつ、事実的名誉に限られるとすると、<事実として社会一般からバカだと思われている人にバカだという行為>は「侮辱」に当たらないということになります7。例えば、「おバカタレント」として売り出している芸能人に<バカという行為>は、「侮辱」の意味の核心部分であるはずなのに、「侮辱」に当たらない可能性があるということになります。

以上のように、「侮辱」の文言についての学説が対立していることや、核心部分に当たるはずの<他人にバカと言う行為>が「侮辱」に当たらない場合がありうるということは、<法律の文言には意味が明確な核心的部分がある>というハートの想定が正しいのかという疑念を抱かせます。

法律の文言の意味の明確性について、ロナルド・ドゥオーキンという法哲学者は、<制定法の文言が曖昧であるのは、解釈のきっかけではなく、結果である>と主張しています。すなわち、「ある法律が不明確であるというのは、競合する二つの解釈のそれぞれに説得力がある論拠がある場合だけである」としています8

「侮辱」の例でいえば、「侮辱」という文言の意味について争いが生じるのは、文言の多義性や抽象性によるものでありません。外部的社会評価説よりも名誉感情説やその他の主張に強い政治道徳的論拠があると考えるとき、または、事実的名誉説よりも規範的名誉説を支持すべき正当化理由があると考えられるときなどに、外部的社会評価説や事実的名誉説による「侮辱」の定義の自明性が失われるからです。

このように、意味が明確なはずの核心部分についても意味が曖昧になる場合があるとすれば、結局、ルール懐疑主義を斥けることはできないということになるのでしょうか。これに対し、ドゥオーキンは、裁判官が法実務を構成的に解釈すると、ルール懐疑主義を斥けることになると主張します。

解釈主義

法の構成的解釈とは、法実務には強制を政治道徳的に正当化するという目的があると想定し、ある行為をその目的に照らして法実務の最良の一例として提示することです。ドゥオーキンによれば、法実務を含む社会的実践の構成的解釈は、三段階に分かれます。①前解釈的段階として、解釈の対象となる社会的実践を特定します。②解釈的段階として、社会的実践の主要部分に適合し(適合性の次元)、それを正当化する最良の政治道徳的理論を構成します(正当化の次元)。③後解釈的段階として、適合性の次元で参照した社会的実践の一部を例外として排除したり、または、正当化の次元で構成した政治道徳理論からすると新たな社会的実践が要求されているとして、法実務の見直しや修正を行います9

<ある行為が侮辱罪に当たる>という言明を例に考えてみます。①前解釈的段階として、日本社会における強制を正当化することを目的とした社会実践を特定します。日本社会では、国会や地方議会による法律や条例の制定や裁判所による裁判などとして法実務をすぐに特定できます。

②解釈的段階として、侮辱に刑事罰を科すことを定める刑法231条といった制定法や、侮辱罪に関する裁判例を含む上記法実務に適合し、侮辱を刑罰の威嚇により抑止するという心理的強制をよりよく正当化する政治道徳理論を構成します。このような政治道徳理論には、様々な政治道徳的原理が含まれる可能性があります。例えば、刑法230条の2のような、公益目的の表現に関する免責規定がない侮辱罪において名誉感情を保護することは、自由な表現を民主主義の前提として保護する表現の自由の原理に反すると考えることもできます。また、諸個人が、自ら人生の計画を建て、それを遂行する可能性を保障すべきであるとする幸福追求権の原理からすると、人間関係の形成や維持、ひいては人生計画(結婚や就職など)に影響を与えるのは事実的名誉であるから、事実的名誉こそ保護すべきと考えることもできるでしょう。刑罰が人権に対する重度の制約となることを考えれば、社会的評価の毀損が軽微である場合には侮辱に当たらないとする比例原則も考慮に値します。

これらの諸原理は、憲法21条(表現の自由)や憲法13条(幸福追求権)、憲法31条(実体的デュー・プロセス;比例原則)にそれぞれ規定されていると考えられていますので、適合性の次元の問題としてとらえることもできます。しかし、重要であるのは、これらの諸原理を含む政治道徳理論(自由民主主義)が、ある行為を刑罰の威嚇により抑止することをよりよく正当化するということです。したがって、上記の規定が憲法改正により削除されたとしても、これらの諸原理を法実務を正当化する政治道徳理論の一部として構成することが妨げられるわけではありません。(そもそも、適正手続きの保障を定める憲法31条が、犯罪と刑罰の均衡という実体法上の原則である比例原則を規定していると考えることには、無理があります。)

③後解釈的段階としては、名誉感情ではなく外部的評価を保護すべき、規範的名誉でなく事実的名誉を保護すべきという政治道徳理論を見直して、政治道徳理論や法実務を修正する必要性を考えます。例えば、名誉を考えるときには、名誉感情であれ社会的評価であれ、個人の名誉であることを前提としてきました。しかし、現代ではヘイトスピーチなどに対応するために集団の名誉というものを保護法益とする立法が検討されることもあるでしょう。また、社会的評価が低い人が侮辱にさらされたままになることは、その人が社会的地位を向上させることを諦めさせ、人生計画を構想する可能性を奪うことになりかねません。そうすると、事実的名誉のみを保護法益とすることが、かえって幸福追求権の原理に反すると考えることもできます。そのような場合には、規範的名誉も名誉の下限については保護法益となりうるとしてこれまでの裁判例を変更すべきともいえます10

<ある行為が侮辱罪に当たる>という言明は、以上のような構成的解釈をとおして、<ある行為を刑罰の威嚇により抑止することが、法実務に最良の正当化理由を与える政治道徳理論により支持される>ということを表明するものです。このような判断は、ルール懐疑主義者がいうように、法律の文言から形式的に導出できるものではありません。しかし、ルール懐疑主義者の想定と異なり、裁判官が何らの制約も受けずに法を創造しているわけでもありません。構成的解釈は、従前の法実務の主要部分と適合するという制約を受けます。(また、このことにより、自然状態から政治道徳理論を構成する自然法論とも構成的解釈は区別されます。)

以上のような構成的解釈としての法的判断には、法実務及び政治道徳に関する諸理論について広い知識が必要となります。しかし、法創造を行うわけではないので、裁判官のような権限は必須ではありません。法知識の量や構成的解釈の熟練度により精度は変わってくるとしても、弁護士資格がない一般市民にも可能であると言えるでしょう。弁護士を含む一般市民の法的判断は、構成的解釈によるものと理解することで初めて、ルール懐疑主義を斥け、裁判官による法創造の予測ではなく、裁判官によるものと同じ法的判断と考えることができるということになるのです。

  1. こたけ正義感のギルティーチャンネル、「リーガルチェックに面白いコメントついてた」(2025年6月26日) ↩︎
  2. なお、判決の主体は、官署としての「裁判所」ではありませんが、訴訟法上の「裁判所」です。 ↩︎
  3. Oliver Wendell Holmes, Jr. “The Path of the Law” Harvard Law Review, 10.8 (1897): pp.457–478, p461 ↩︎
  4. H.L.A. ハート=著、長谷部恭男=訳、『法の概念〔第3版〕』2014年(原著初版1961年)、筑摩書房、228頁以下 ↩︎
  5. H.L.A. ハート=著、長谷部恭男=訳、『法の概念〔第3版〕』2014年(原著初版1961年)、筑摩書房、231~232頁 ↩︎
  6. 最一決昭和58年11月1日 刑集37巻9号1341頁 ↩︎
  7. 前田雅英他編『条解刑法〔第5版〕』2025年、弘文堂、713頁参照 ↩︎
  8. Dworkin, Ronald. Law’s Empire, Hart Publishing 1998(1986). Print. p352 ↩︎
  9. Dworkin, Ronald. Law’s Empire, Hart Publishing 1998(1986). Print. pp65-66 ↩︎
  10. 前田雅英他編『条解刑法〔第5版〕』2025年、弘文堂、713頁参照 ↩︎

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