語彙と存在

教養が欲しいという話

Chat-GPT5

Microsoft 365 のAIアシスタントである Copilot に、いつの間にか ChatGPT-5 が実装されていました。開発会社であるOpenAI によると、ChatGPT-5 は「博士号レベルの知性を備えた親しい友人と会話しているように感じられる」らしいです。私も、最近、Copilot (ChatGPT-5) にいろいろと訊いてみています。法律事務所の集客コラム程度の知識であれば、もはや ChatGPT-5 に訊けば十分な水準です。

そこで、ChatGPT-5 に、自分でもよく分かっていない、ゲーデルの不完全性定理の証明について質問してみました。ChatGPT-5からは、理解しているような印象を受ける回答が返ってきました。しかし、私自身は、<ゲーデル数化により、メタ述語をペアノ算術内で定義できる>のはなぜなのか、いまだに分からないままです。「博士号レベルの知性を備えた親しい友人」に繰り返し問いただしても分からないとなると、私がゲーデルの不完全性定理の証明を理解できる日が来るのか、不安になります。

今月読んだ本には、文学博士号を取得した著者が、フランスで10年かけて完成させた博士論文について、<必要な文献を読み込ませたChatGPT4のほうが自分より見事な立論をした>と書いていました1。著者自身が適切な文献とプロンプトを入力したということもあるのでしょうが、大規模言語モデルによるAIが知的水準が博士号水準となっているというのは間違いないのでしょう。

学問的能力については、すでに人間がAIに抜かされている場面は多くあるでしょう。

教養の書

ChatGPT-5にあれこれ質問していると、自分の知識や教養のなさが気になってきました。弁護士は、「深い教養の保持」に努めなければならないと弁護士法2条にも書いてあります。そこで、Wikipedia で「教養」のページを読むと、出典として戸田山和久教授の『教養の書』が挙げられていました。

戸田山教授の『哲学入門』はよく読み返すくらい好きなので、『教養の書』を早速購入しました。本の内容は、様々な教養の語の使用例から教養の定義を作って、さらには教養の身に着け方を示すというものです。大学新入生向けの本ですが、<教養>概念の創造・改訂と実装という、戸田山教授自身の哲学観である概念工学の実践ともいえるようなものでした。<人工知能により、「いまある社会でいまある仕事をうまくこなすための能力」が代替されるかもしれない中で、身に着けるべきは普遍的で古びることのない教養である>という、私にとって時宜を得た記載もありました2

この『教養の書』の中で推奨されていることの一つが、語彙を増やすことと、使う語彙を選ぶことです。「言葉は思考拡張装置」ということで3、言語(特に母語)によって思考する以上、母語の語彙を増やさなければ思考はできないというわけです。また、語彙を奪われることによって思考が制限されるということでもあります。

語彙の選択は存在論かもという話

クワインの存在論

『教養の書』からは離れますが、語彙を選択するということは、哲学の中でも存在論という分野と深い関りがあります。存在論は、<存在とは何か>、<何が存在するのか>という問いを扱う西洋の思想伝統です。存在論は、意味不明の同義語として使われることの多い形而上学の一分野でもあります。

W.V.O.クワインという哲学者は、存在論の問題を、「ある」や「ない」という言語の使用に関する問題であるとみなしました。クワインによれば、

存在者とされるとは、掛け値なしに言って、変項の値とみなされることである。

とされます4。すなわち、「何が存在するのか」というのは理論に対して相対的であり、その理論において量化されている(数え上げられる)ものについて、存在することが前提とされているということになります(存在論的コミットメント)。量化されているとは、「∃xF(x):あるxは、Fである」とか、「∀yG(y):すべてのyは、Gである」という命題のxやyのように、数え上げることができることを言います。

例えば、「ある生き物は、ペガサスではない」や「すべての馬は、翼がない」という命題を含む生物学理論は、「生き物」や「馬」を存在者とみなしていますが、「ペガサスであること」や「翼があること」は存在者とみなしていません。これに対して、「あるペガサスは、生きている」、「すべての翼は、羽毛がある」という命題を含む生物学理論は、「ペガサス」や「翼」を存在者とみなし、「生きていること」、「羽毛があること」は存在者とみなしていません。

このようなクワインの存在論によれば、存在者を記述する複数の理論が並び立つこととなり、理論外部において存在者を記述するようなことはできません。そうすると、複数の理論からどの理論を選べばよいのでしょうか。クワインは、「なまの経験の無秩序な断片をはめ込み配置できるもっとも単純な概念図式」、すなわち、経験に対して最も簡明な説明を与えられる理論を採用することになるといいます5

こうして、語彙の選択は、何を存在するとみなすかということに関わってきます。物理学や生物学などの科学理論の場合、使用する語彙の選択を誤っていたとしても、何が起こるかに関する予測を外すだけです。しかし、道徳理論や法理論などの規範理論の場合、人々が規範的語彙(「人格」、「権利」、「義務」、「責任」など)を失えば、規範的対象(人格、権利、義務、責任など)そのものが消えることもありえます。

メタ倫理学的検討

さて、実際に規範的対象が失われうる場面がどのようなものかを見る前に、そもそもクワインの存在論を規範理論に応用することが可能であるのかという点を確認しておきたいと思います。というのも、規範的対象については、消えるも何も最初から存在しないのではないかという主張もありうるからです。

道徳が存在しないという主張として、J・L・マッキーの錯誤理論などの道徳非実在論があります。錯誤理論によれば、道徳的な悪さや道徳的正しさという性質は実在しないため、「人を殺すことは道徳的に悪い」とか、「あの人は道徳的に正しいことをした」などの道徳的言明は誤りであるということになります。マッキーは、道徳的性質が実在しない理由として、①道徳が地域や場所により異なること(事実としての相対主義)、及び、②客観的な道徳的価値があるとすれば自然でない奇妙なものになる(奇妙さ)を挙げています6

また、道徳的非認知主義という考え方もあります。道徳非実在論が、ないものをあると判断した(道徳的命題に真という真理値を帰属した)と考えるのに対し、非認知主義は、道徳的言明は判断(命題)ではないと考えます。「人を殺すことは道徳的に悪い」とか、「あの人は道徳的に正しいことをした」というのは、怒りや悲しみ、好き嫌いなどの感情表現であって、心の外にあるものを認識したとは考えないわけです。

しかし、道徳的非実在論や非認知主義に対しては、規範言明の語用に関する自己拘束性から規範言明(~すべきであるという文)に真理値帰属性(真偽を問いうる性質あるいはそれに準じたもの)を認め、規範言明から構成された規範理論において量化された規範的対象を存在者とすることで、反論が可能であると思います。

まず、規範言明を用いた対話が成り立つためには、規範言明の使用において発話者が自己拘束される必要があります。<あれすべき、これすべき>などと言いながら、自分は守らない人は対話の相手方として信用されないわけです。自己拘束の内容としては、反転可能性(一般性)や普遍化可能性(普遍性)、相互承認や公共的受容、過去の道徳的実践への適合性、これらの組み合わせなど様々ありえます。例えば、反転可能性により発話者が自己拘束される場合、発話者は相手方と立場が入れ替わったとしても規範言明に従うことを、規範言明を使用する前提とすることになります。このような規範言明の語用におけるコミットメント(語用論的コミットメント)により、規範言明は、真理値が帰属するかのように扱うことができます。すなわち、規範言明に反転可能性や普遍化可能性、相互承認や公共的受容がある場合は「真」、ない場合は「偽」として扱うことができます。

規範言明に真理値が帰属しうる場合、クワインの存在論によれば、規範言明を含む規範理論において量化される(数え上げられる)ものとして、規範的対象を存在者として記述することができます。規範言明において量化された「法人格」、「権利」、「義務」、「責任」などは、その規範言明が含まれる規範理論において存在するものとして扱えます(存在論的コミットメント)。

このような語用論的真理値帰属性とクワイン的存在論の組み合わせにより、規範的対象は、規範理論内部においては、客観的に実在するものとして扱われます(道徳実在論)。しかし、メタ的水準においては、語用論的コミットメントの内容に応じて様々な規範理論を構成しうるので、規範的対象は理論相対的となります(①事実としての相対主義)。また、規範的言明の自己拘束的使用が協力行動による生存可能性を上げたとすれば、規範の存在について進化論的説明も可能です(②規範の自然化)。

なお、この理論は、規範の存在を自然科学に整合的に説明しつつ、自然主義的誤謬も免れています。自然主義的誤謬とは、例えば、功利主義のように、道徳的性質(善さ)について別の自然的性質(快)で言い換えることです。このような言い換えは、「快は善さなのか?」などという答えられるべき問い(未決問題)を残したままにしているという点で、回答になっていません7。上記理論は、規範理論の存在(規範言明の使用)については進化論的説明をしていますが、進化論により規範理論の正当化を行っているわけではありません。

また、この理論は、価値相対主義の主張がどのようなものなのかをはっきりさせるという利点もあります。価値相対主義が規範理論内部の主張として行われる場合、それはメタ的水準の言明を持ち出し、規範理論内部での議論(規範言明を用いた対話)を拒否しているということなのです。反転可能性(一般性)や普遍化可能性(普遍性)、相互承認や公共的受容、過去の道徳的実践への適合性、これらの組み合わせなどの語用論的コミットメントに応じた複数の規範理論のうち、どの理論を選ぶべきかという問題は、それぞれの理論に人々が従うことが合理的と考えるかどうかにかかっています。そのため、複数の規範理論が存在するということは、人々にどの規範理論が選ばれるのかはそれぞれの規範理論内部の存在者の魅力によるということを意味するに過ぎません8。そのため、メタ的水準の価値相対主義を前提としても、規範言明を用いた対話を続けるのであれば、あくまで規範理論内部から規範的対象の実在を前提とした客観主義的主張をする必要があります。

語彙が思考を制限するかもという話

さて、以上のメタ倫理学的検討を通じて、規範理論についてもクワインの存在論を応用できる(というより、クワインの存在論により規範的対象の実在が説明できる)ということを示せたと思います。そこで、規範的語彙の選択が、規範的対象を消すということについて、実際に想定される場面を考えてみたいと思います。ここで取り上げるのは、「自責思考/他責思考」という言葉です。

「自責思考/他責思考」という言葉は Wikipedia にも項目がありません。ChatGPT-5 に聞いてみたところ、以下の回答がありました9

自責思考と他責思考は、物事の原因や責任をどこに求めるかという「原因帰属」のスタイルを指します。

☑ 自責思考(自己責任型)

定義:問題や失敗の原因を自分にあると考える思考パターン。
特徴:

「自分の努力不足だった」「もっと準備できたはず」と考える。
メリット:改善点を見つけやすく、成長につながる。
デメリット:過度になると自己否定や過剰な罪悪感を招き、メンタル不調のリスク。

☑ 他責思考(他者責任型)

定義:問題や失敗の原因を他人や環境にあると考える思考パターン。
特徴:

「上司の指示が悪かった」「環境が整っていない」と考える。
メリット:自己肯定感を守りやすく、ストレスを軽減できる。
デメリット:改善行動が起きにくく、対人関係の摩擦や成長の停滞につながる。

☑ バランスが重要

どちらか一方に偏ると問題が生じやすい。
理想:事実を客観的に分析し、「自分にできる改善」と「外部要因」を適切に切り分ける。

以上の回答は、おおむね、インターネット上で見られる「自責思考」や「他責思考」という語彙に関する一般的な説明として適切なものと言えるのではないかと思います。Amazon.co.jp で検索したところ、2012年には、「自責」、「他責」が書名に入ったビジネス書が発売されているようであり、そのころから自己啓発の用語となったのではないかと伺われます。出版された本の概要を読んでいくと、最初は経営者が自ら自責思考をすることが推奨されていたようですが、段々と従業員に自責思考を求めるようになっていくという変遷が見られます。他人に自責思考を求めるのは他責思考なのではないかという気もしますが、ここではおいておきます。

「自責思考」、「他責思考」の語彙は、道徳的な規範理論に新しい規範的対象を追加するものでしょうか? そうではないと思われます。おおよその規範理論においては、「自由意志」、「責任」といった語彙は含まれていると思われます。「自由意志」や「責任」という語彙を使わない道徳理論や法理論を構築する試みは、倫理学の分野で行われていますが、まだまだ一般的ではないはずです。「自由意志」は、「因果関係」とともに結果の責任を人に帰属させる語彙ですし、「責任」は自分と他人を問わず非難の対象となる地位を表す語彙です。「自責思考」、「他責思考」という語彙がなくとも、「自由意志」や「責任」という語彙で、だれが結果の原因であるのか、だれに責任があるのかということは十分に規範理論内部で論じることができると思われます。

そうすると、「自責思考」、「他責思考」という語彙は、規範理論においてあってもなくても同じなのでしょうか。それも違うと思われます。「自責思考」、「他責思考」という対概念は、二分法に誘導する語彙、「誰のせいでもなく起きうる不利益な出来事」や「不運」という語彙を消去する語彙であると考えられます。「自由意志」という語彙には、自分の責任となることと、そうでないことを分けるという規範的役割があります。それは、誰のせいでもない「幸運」や「不運」という語彙と表裏の関係にあります。「自責思考」という語彙も、自分の責任となることとそうでないことを分けますが、これと表裏となるのは、(通常、環境に責任は帰属しないため、)「他人の責任」です。このように、「自責思考」、「他責思考」という語彙は、誰の責任でもない「不運」という語彙を規範理論内部から消去する危険があると言えます。

「不運」という語彙を消去するからといって、直ちに、「自責思考」、「他責思考」という語彙を使うべきではないということにはならないでしょう。しかし、ある語彙を使うという選択は、世界をどのように理解するのかということに関わっています。また、規範的語彙の使用は、他者とどのような規範的存在者と共有するのかということに関わります。「不運」という語彙を消去することが、自らの規範理論を豊かにするのか吟味する能力も、開発者によって語彙が規制されたAIにはない一つの教養であると思われます。

  1. 鈴木隆美『誤読と暴走の日本思想:西周、福沢諭吉から東浩紀、落合陽一まで』(2025年、光文社)53~54頁 ↩︎
  2. 戸田山和久『教養の書』(2020年、筑摩書房)121~123頁 ↩︎
  3. 戸田山和久『教養の書』(2020年、筑摩書房)218頁 ↩︎
  4. ヴィラード・ヴァン・オーマン・クワイン著、飯田隆訳『論理学の観点から:論理と哲学をめぐる九章』(1992年、勁草書房)18~19頁 ↩︎
  5. ヴィラード・ヴァン・オーマン・クワイン著、飯田隆訳『論理学の観点から:論理と哲学をめぐる九章』(1992年、勁草書房)24頁 ↩︎
  6. 佐藤岳詩『メタ倫理学入門』(2017年、勁草書房)64~72頁 ↩︎
  7. 佐藤岳詩『メタ倫理学入門』(2017年、勁草書房)96~99頁 ↩︎
  8. 真理論の文脈ですが、クワインの存在論に言及しながら、規範理論選択がその諸成果の総体に依存するとする着想について、井上達夫『規範と法命題』(木鐸社、2021年)222~225頁 ↩︎
  9. Microsoft 365 Copilot (ChatGPT-5) による「自責思考・他責思考とは何ですか」に対する回答、2025年9月22日取得 ↩︎

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