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	<title>法哲学 | 備後法律事務所</title>
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	<description>広島県福山市の弁護士</description>
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	<title>法哲学 | 備後法律事務所</title>
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	<item>
		<title>語彙と存在</title>
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		<dc:creator><![CDATA[弁護士　天野　克則]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 22 Sep 2025 09:36:58 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ブログ]]></category>
		<category><![CDATA[法哲学]]></category>
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					<description><![CDATA[教養が欲しいという話 Chat-GPT5 Microsoft 365 のＡＩアシスタントである Copilot に、いつの間にか ChatGPT-5 が実装されていました。開発会社であるOpenAI によると、ChatG [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">教養が欲しいという話</h2>



<h3 class="wp-block-heading">Chat-GPT5</h3>



<p>Microsoft 365 のＡＩアシスタントである Copilot に、いつの間にか ChatGPT-5 が実装されていました。開発会社であるOpenAI によると、ChatGPT-5 は「<a rel="noopener" target="_blank" href="https://openai.com/ja-JP/index/introducing-gpt-5/">博士号レベルの知性を備えた親しい友人と会話しているように感じられる</a>」らしいです。私も、最近、Copilot (ChatGPT-5) にいろいろと訊いてみています。法律事務所の集客コラム程度の知識であれば、もはや ChatGPT-5 に訊けば十分な水準です。</p>



<p>そこで、ChatGPT-5 に、自分でもよく分かっていない、ゲーデルの不完全性定理の証明について質問してみました。ChatGPT-５からは、理解しているような印象を受ける回答が返ってきました。しかし、私自身は、＜ゲーデル数化により、メタ述語をペアノ算術内で定義できる＞のはなぜなのか、いまだに分からないままです。「博士号レベルの知性を備えた親しい友人」に繰り返し問いただしても分からないとなると、私がゲーデルの不完全性定理の証明を理解できる日が来るのか、不安になります。</p>



<p>今月読んだ本には、文学博士号を取得した著者が、フランスで１０年かけて完成させた博士論文について、＜必要な文献を読み込ませたChatGPT４のほうが自分より見事な立論をした＞と書いていました<sup data-fn="17324ebd-0410-4ce0-9e2d-872e003e18eb" class="fn"><a href="#17324ebd-0410-4ce0-9e2d-872e003e18eb" id="17324ebd-0410-4ce0-9e2d-872e003e18eb-link">1</a></sup>。著者自身が適切な文献とプロンプトを入力したということもあるのでしょうが、大規模言語モデルによるＡＩが知的水準が博士号水準となっているというのは間違いないのでしょう。</p>



<p>学問的能力については、すでに人間がＡＩに抜かされている場面は多くあるでしょう。</p>



<h3 class="wp-block-heading">教養の書</h3>



<p>ChatGPT-５にあれこれ質問していると、自分の知識や教養のなさが気になってきました。弁護士は、「深い教養の保持」に努めなければならないと弁護士法２条にも書いてあります。そこで、Wikipedia で「教養」のページを読むと、出典として戸田山和久教授の『教養の書』が挙げられていました。</p>



<p>戸田山教授の『哲学入門』はよく読み返すくらい好きなので、『教養の書』を早速購入しました。本の内容は、様々な教養の語の使用例から教養の定義を作って、さらには教養の身に着け方を示すというものです。大学新入生向けの本ですが、＜教養＞概念の創造・改訂と実装という、戸田山教授自身の哲学観である概念工学の実践ともいえるようなものでした。＜人工知能により、「いまある社会でいまある仕事をうまくこなすための能力」が代替されるかもしれない中で、身に着けるべきは普遍的で古びることのない教養である＞という、私にとって時宜を得た記載もありました<sup data-fn="d9e11271-579a-440c-b574-c1112168c028" class="fn"><a href="#d9e11271-579a-440c-b574-c1112168c028" id="d9e11271-579a-440c-b574-c1112168c028-link">2</a></sup>。</p>



<p>この『教養の書』の中で推奨されていることの一つが、語彙を増やすことと、使う語彙を選ぶことです。「言葉は思考拡張装置」ということで<sup data-fn="f844995e-f90e-45b9-8acd-d05d7a407b9e" class="fn"><a href="#f844995e-f90e-45b9-8acd-d05d7a407b9e" id="f844995e-f90e-45b9-8acd-d05d7a407b9e-link">3</a></sup>、言語（特に母語）によって思考する以上、母語の語彙を増やさなければ思考はできないというわけです。また、語彙を奪われることによって思考が制限されるということでもあります。</p>



<h2 class="wp-block-heading">語彙の選択は存在論かもという話</h2>



<h3 class="wp-block-heading">クワインの存在論</h3>



<p>『教養の書』からは離れますが、語彙を選択するということは、哲学の中でも存在論という分野と深い関りがあります。存在論は、＜存在とは何か＞、＜何が存在するのか＞という問いを扱う西洋の思想伝統です。存在論は、意味不明の同義語として使われることの多い形而上学の一分野でもあります。</p>



<p>W.V.O.クワインという哲学者は、存在論の問題を、「ある」や「ない」という言語の使用に関する問題であるとみなしました。クワインによれば、</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>存在者とされるとは、掛け値なしに言って、変項の値とみなされることである。</p>
</blockquote>



<p>とされます<sup data-fn="174be00f-d487-4862-94c1-76551fb17016" class="fn"><a href="#174be00f-d487-4862-94c1-76551fb17016" id="174be00f-d487-4862-94c1-76551fb17016-link">4</a></sup>。すなわち、「何が存在するのか」というのは理論に対して相対的であり、その理論において量化されている（数え上げられる）ものについて、存在することが前提とされているということになります（存在論的コミットメント）。量化されているとは、「∃ｘＦ（ｘ）：あるｘは、Ｆである」とか、「∀ｙＧ（ｙ）：すべてのｙは、Ｇである」という命題のｘやｙのように、数え上げることができることを言います。</p>



<p>例えば、「ある生き物は、ペガサスではない」や「すべての馬は、翼がない」という命題を含む生物学理論は、「生き物」や「馬」を存在者とみなしていますが、「ペガサスであること」や「翼があること」は存在者とみなしていません。これに対して、「あるペガサスは、生きている」、「すべての翼は、羽毛がある」という命題を含む生物学理論は、「ペガサス」や「翼」を存在者とみなし、「生きていること」、「羽毛があること」は存在者とみなしていません。</p>



<p>このようなクワインの存在論によれば、存在者を記述する複数の理論が並び立つこととなり、理論外部において存在者を記述するようなことはできません。そうすると、複数の理論からどの理論を選べばよいのでしょうか。クワインは、「なまの経験の無秩序な断片をはめ込み配置できるもっとも単純な概念図式」、すなわち、経験に対して最も簡明な説明を与えられる理論を採用することになるといいます<sup data-fn="08e57d8b-1f0a-4c20-ae66-c16c0eb12bdb" class="fn"><a href="#08e57d8b-1f0a-4c20-ae66-c16c0eb12bdb" id="08e57d8b-1f0a-4c20-ae66-c16c0eb12bdb-link">5</a></sup>。</p>



<p>こうして、語彙の選択は、何を存在するとみなすかということに関わってきます。物理学や生物学などの科学理論の場合、使用する語彙の選択を誤っていたとしても、何が起こるかに関する予測を外すだけです。しかし、道徳理論や法理論などの規範理論の場合、人々が規範的語彙（「人格」、「権利」、「義務」、「責任」など）を失えば、規範的対象（人格、権利、義務、責任など）そのものが消えることもありえます。</p>



<h3 class="wp-block-heading">メタ倫理学的検討</h3>



<p>さて、実際に規範的対象が失われうる場面がどのようなものかを見る前に、そもそもクワインの存在論を規範理論に応用することが可能であるのかという点を確認しておきたいと思います。というのも、規範的対象については、消えるも何も最初から存在しないのではないかという主張もありうるからです。</p>



<p>道徳が存在しないという主張として、J・L・マッキーの錯誤理論などの道徳非実在論があります。錯誤理論によれば、道徳的な悪さや道徳的正しさという性質は実在しないため、「人を殺すことは道徳的に悪い」とか、「あの人は道徳的に正しいことをした」などの道徳的言明は誤りであるということになります。マッキーは、道徳的性質が実在しない理由として、①道徳が地域や場所により異なること（事実としての相対主義）、及び、②客観的な道徳的価値があるとすれば自然でない奇妙なものになる（奇妙さ）を挙げています<sup data-fn="10ce297c-579d-4058-87c8-9492ec066df5" class="fn"><a href="#10ce297c-579d-4058-87c8-9492ec066df5" id="10ce297c-579d-4058-87c8-9492ec066df5-link">6</a></sup>。</p>



<p>また、道徳的非認知主義という考え方もあります。道徳非実在論が、ないものをあると判断した（道徳的命題に真という真理値を帰属した）と考えるのに対し、非認知主義は、道徳的言明は判断（命題）ではないと考えます。「人を殺すことは道徳的に悪い」とか、「あの人は道徳的に正しいことをした」というのは、怒りや悲しみ、好き嫌いなどの感情表現であって、心の外にあるものを認識したとは考えないわけです。</p>



<p>しかし、道徳的非実在論や非認知主義に対しては、規範言明の語用に関する自己拘束性から規範言明（～すべきであるという文）に真理値帰属性（真偽を問いうる性質あるいはそれに準じたもの）を認め、規範言明から構成された規範理論において量化された規範的対象を存在者とすることで、反論が可能であると思います。</p>



<p>まず、規範言明を用いた対話が成り立つためには、規範言明の使用において発話者が自己拘束される必要があります。&lt;あれすべき、これすべき&gt;などと言いながら、自分は守らない人は対話の相手方として信用されないわけです。自己拘束の内容としては、反転可能性（一般性）や普遍化可能性（普遍性）、相互承認や公共的受容、過去の道徳的実践への適合性、これらの組み合わせなど様々ありえます。例えば、反転可能性により発話者が自己拘束される場合、発話者は相手方と立場が入れ替わったとしても規範言明に従うことを、規範言明を使用する前提とすることになります。このような規範言明の語用におけるコミットメント（語用論的コミットメント）により、規範言明は、真理値が帰属するかのように扱うことができます。すなわち、規範言明に反転可能性や普遍化可能性、相互承認や公共的受容がある場合は「真」、ない場合は「偽」として扱うことができます。</p>



<p>規範言明に真理値が帰属しうる場合、クワインの存在論によれば、規範言明を含む規範理論において量化される（数え上げられる）ものとして、規範的対象を存在者として記述することができます。規範言明において量化された「法人格」、「権利」、「義務」、「責任」などは、その規範言明が含まれる規範理論において存在するものとして扱えます（存在論的コミットメント）。</p>



<p>このような語用論的真理値帰属性とクワイン的存在論の組み合わせにより、規範的対象は、規範理論内部においては、客観的に実在するものとして扱われます（道徳実在論）。しかし、メタ的水準においては、語用論的コミットメントの内容に応じて様々な規範理論を構成しうるので、規範的対象は理論相対的となります（①事実としての相対主義）。また、規範的言明の自己拘束的使用が協力行動による生存可能性を上げたとすれば、規範の存在について進化論的説明も可能です（②規範の自然化）。</p>



<p>なお、この理論は、規範の存在を自然科学に整合的に説明しつつ、自然主義的誤謬も免れています。自然主義的誤謬とは、例えば、功利主義のように、道徳的性質（善さ）について別の自然的性質（快）で言い換えることです。このような言い換えは、「快は善さなのか？」などという答えられるべき問い（未決問題）を残したままにしているという点で、回答になっていません<sup data-fn="5bd18a3d-ff50-42ad-accd-15033b81e505" class="fn"><a href="#5bd18a3d-ff50-42ad-accd-15033b81e505" id="5bd18a3d-ff50-42ad-accd-15033b81e505-link">7</a></sup>。上記理論は、規範理論の存在（規範言明の使用）については進化論的説明をしていますが、進化論により規範理論の正当化を行っているわけではありません。</p>



<p>また、この理論は、価値相対主義の主張がどのようなものなのかをはっきりさせるという利点もあります。価値相対主義が規範理論内部の主張として行われる場合、それはメタ的水準の言明を持ち出し、規範理論内部での議論（規範言明を用いた対話）を拒否しているということなのです。反転可能性（一般性）や普遍化可能性（普遍性）、相互承認や公共的受容、過去の道徳的実践への適合性、これらの組み合わせなどの語用論的コミットメントに応じた複数の規範理論のうち、どの理論を選ぶべきかという問題は、それぞれの理論に人々が従うことが合理的と考えるかどうかにかかっています。そのため、複数の規範理論が存在するということは、人々にどの規範理論が選ばれるのかはそれぞれの規範理論内部の存在者の魅力によるということを意味するに過ぎません<sup data-fn="1aa47bc1-f9d7-4952-945b-051f89b11554" class="fn"><a href="#1aa47bc1-f9d7-4952-945b-051f89b11554" id="1aa47bc1-f9d7-4952-945b-051f89b11554-link">8</a></sup>。そのため、メタ的水準の価値相対主義を前提としても、規範言明を用いた対話を続けるのであれば、あくまで規範理論内部から規範的対象の実在を前提とした客観主義的主張をする必要があります。</p>



<h2 class="wp-block-heading">語彙が思考を制限するかもという話</h2>



<p>さて、以上のメタ倫理学的検討を通じて、規範理論についてもクワインの存在論を応用できる（というより、クワインの存在論により規範的対象の実在が説明できる）ということを示せたと思います。そこで、規範的語彙の選択が、規範的対象を消すということについて、実際に想定される場面を考えてみたいと思います。ここで取り上げるのは、「自責思考／他責思考」という言葉です。</p>



<p>「自責思考／他責思考」という言葉は Wikipedia にも項目がありません。ChatGPT-5 に聞いてみたところ、以下の回答がありました<sup data-fn="0d85700e-a92a-488d-a86d-31a014139c1e" class="fn"><a href="#0d85700e-a92a-488d-a86d-31a014139c1e" id="0d85700e-a92a-488d-a86d-31a014139c1e-link">9</a></sup>。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>自責思考と他責思考は、物事の原因や責任をどこに求めるかという「原因帰属」のスタイルを指します。</p>



<p>☑ 自責思考（自己責任型）</p>



<p>定義：問題や失敗の原因を自分にあると考える思考パターン。<br>特徴：</p>



<p>「自分の努力不足だった」「もっと準備できたはず」と考える。<br>メリット：改善点を見つけやすく、成長につながる。<br>デメリット：過度になると自己否定や過剰な罪悪感を招き、メンタル不調のリスク。</p>



<p>☑ 他責思考（他者責任型）</p>



<p>定義：問題や失敗の原因を他人や環境にあると考える思考パターン。<br>特徴：</p>



<p>「上司の指示が悪かった」「環境が整っていない」と考える。<br>メリット：自己肯定感を守りやすく、ストレスを軽減できる。<br>デメリット：改善行動が起きにくく、対人関係の摩擦や成長の停滞につながる。</p>



<p>☑ バランスが重要</p>



<p>どちらか一方に偏ると問題が生じやすい。<br>理想：事実を客観的に分析し、「自分にできる改善」と「外部要因」を適切に切り分ける。</p>
</blockquote>



<p>以上の回答は、おおむね、インターネット上で見られる「自責思考」や「他責思考」という語彙に関する一般的な説明として適切なものと言えるのではないかと思います。Amazon.co.jp で検索したところ、２０１２年には、「自責」、「他責」が書名に入ったビジネス書が発売されているようであり、そのころから自己啓発の用語となったのではないかと伺われます。出版された本の概要を読んでいくと、最初は経営者が自ら自責思考をすることが推奨されていたようですが、段々と従業員に自責思考を求めるようになっていくという変遷が見られます。他人に自責思考を求めるのは他責思考なのではないかという気もしますが、ここではおいておきます。</p>



<p>「自責思考」、「他責思考」の語彙は、道徳的な規範理論に新しい規範的対象を追加するものでしょうか？　そうではないと思われます。おおよその規範理論においては、「自由意志」、「責任」といった語彙は含まれていると思われます。「自由意志」や「責任」という語彙を使わない道徳理論や法理論を構築する試みは、倫理学の分野で行われていますが、まだまだ一般的ではないはずです。「自由意志」は、「因果関係」とともに結果の責任を人に帰属させる語彙ですし、「責任」は自分と他人を問わず非難の対象となる地位を表す語彙です。「自責思考」、「他責思考」という語彙がなくとも、「自由意志」や「責任」という語彙で、だれが結果の原因であるのか、だれに責任があるのかということは十分に規範理論内部で論じることができると思われます。</p>



<p>そうすると、「自責思考」、「他責思考」という語彙は、規範理論においてあってもなくても同じなのでしょうか。それも違うと思われます。「自責思考」、「他責思考」という対概念は、二分法に誘導する語彙、「誰のせいでもなく起きうる不利益な出来事」や「不運」という語彙を消去する語彙であると考えられます。「自由意志」という語彙には、自分の責任となることと、そうでないことを分けるという規範的役割があります。それは、誰のせいでもない「幸運」や「不運」という語彙と表裏の関係にあります。「自責思考」という語彙も、自分の責任となることとそうでないことを分けますが、これと表裏となるのは、（通常、環境に責任は帰属しないため、）「他人の責任」です。このように、「自責思考」、「他責思考」という語彙は、誰の責任でもない「不運」という語彙を規範理論内部から消去する危険があると言えます。</p>



<p>「不運」という語彙を消去するからといって、直ちに、「自責思考」、「他責思考」という語彙を使うべきではないということにはならないでしょう。しかし、ある語彙を使うという選択は、世界をどのように理解するのかということに関わっています。また、規範的語彙の使用は、他者とどのような規範的存在者と共有するのかということに関わります。「不運」という語彙を消去することが、自らの規範理論を豊かにするのか吟味する能力も、開発者によって語彙が規制されたAIにはない一つの教養であると思われます。</p>



<p></p>


<ol class="wp-block-footnotes"><li id="17324ebd-0410-4ce0-9e2d-872e003e18eb">鈴木隆美『誤読と暴走の日本思想：西周、福沢諭吉から東浩紀、落合陽一まで』（２０２５年、光文社）５３～５４頁 <a href="#17324ebd-0410-4ce0-9e2d-872e003e18eb-link" aria-label="脚注参照1にジャンプ">↩︎</a></li><li id="d9e11271-579a-440c-b574-c1112168c028">戸田山和久『教養の書』（２０２０年、筑摩書房）１２１～１２３頁 <a href="#d9e11271-579a-440c-b574-c1112168c028-link" aria-label="脚注参照2にジャンプ">↩︎</a></li><li id="f844995e-f90e-45b9-8acd-d05d7a407b9e">戸田山和久『教養の書』（２０２０年、筑摩書房）２１８頁 <a href="#f844995e-f90e-45b9-8acd-d05d7a407b9e-link" aria-label="脚注参照3にジャンプ">↩︎</a></li><li id="174be00f-d487-4862-94c1-76551fb17016">ヴィラード・ヴァン・オーマン・クワイン著、飯田隆訳『論理学の観点から：論理と哲学をめぐる九章』（１９９２年、勁草書房）１８～１９頁 <a href="#174be00f-d487-4862-94c1-76551fb17016-link" aria-label="脚注参照4にジャンプ">↩︎</a></li><li id="08e57d8b-1f0a-4c20-ae66-c16c0eb12bdb">ヴィラード・ヴァン・オーマン・クワイン著、飯田隆訳『論理学の観点から：論理と哲学をめぐる九章』（１９９２年、勁草書房）２４頁 <a href="#08e57d8b-1f0a-4c20-ae66-c16c0eb12bdb-link" aria-label="脚注参照5にジャンプ">↩︎</a></li><li id="10ce297c-579d-4058-87c8-9492ec066df5">佐藤岳詩『メタ倫理学入門』（２０１７年、勁草書房）６４～７２頁 <a href="#10ce297c-579d-4058-87c8-9492ec066df5-link" aria-label="脚注参照6にジャンプ">↩︎</a></li><li id="5bd18a3d-ff50-42ad-accd-15033b81e505">佐藤岳詩『メタ倫理学入門』（２０１７年、勁草書房）９６～９９頁 <a href="#5bd18a3d-ff50-42ad-accd-15033b81e505-link" aria-label="脚注参照7にジャンプ">↩︎</a></li><li id="1aa47bc1-f9d7-4952-945b-051f89b11554">真理論の文脈ですが、クワインの存在論に言及しながら、規範理論選択がその諸成果の総体に依存するとする着想について、井上達夫『規範と法命題』（木鐸社、２０２１年）２２２～２２５頁 <a href="#1aa47bc1-f9d7-4952-945b-051f89b11554-link" aria-label="脚注参照8にジャンプ">↩︎</a></li><li id="0d85700e-a92a-488d-a86d-31a014139c1e">Microsoft 365 Copilot (ChatGPT-5) による「自責思考・他責思考とは何ですか」に対する回答、２０２５年９月２２日取得 <a href="#0d85700e-a92a-488d-a86d-31a014139c1e-link" aria-label="脚注参照9にジャンプ">↩︎</a></li></ol>]]></content:encoded>
					
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		<title>弁護士には法的判断ができるのか</title>
		<link>https://www.bingo-law.jp/archives/236</link>
					<comments>https://www.bingo-law.jp/archives/236#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[弁護士　天野　克則]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 31 Aug 2025 12:17:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ブログ]]></category>
		<category><![CDATA[法哲学]]></category>
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					<description><![CDATA[ルール懐疑主義 弁護士であり、芸人である、こたけ正義感先生のYouTubeチャンネルにおいて、あるコメントが紹介されていました。「なんでもリーガルチェック」という企画において、こたけ正義感先生が、バカと言われたことが侮辱 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">ルール懐疑主義</h2>



<p>弁護士であり、芸人である、こたけ正義感先生のYouTubeチャンネルにおいて、あるコメントが紹介されていました。「なんでもリーガルチェック」という企画において、こたけ正義感先生が、バカと言われたことが侮辱罪に当たると述べたことに対して、〈有罪か無罪か、または何罪に該当するかという決定をする権限を有するのは裁判所であり、弁護士に判断できることではない〉という趣旨のコメントがあったようです<sup data-fn="be6f7ff0-f15b-4635-8c39-7eca4ab1c85b" class="fn"><a href="#be6f7ff0-f15b-4635-8c39-7eca4ab1c85b" id="be6f7ff0-f15b-4635-8c39-7eca4ab1c85b-link">1</a></sup>。このコメントに対して、こたけ正義感先生は、法と競技ゲームのルールとの類比により反論していますので、実際に<a rel="noopener" target="_blank" href="https://www.youtube.com/watch?v=Fu_HnyDWKY4">動画</a>を見ていただきたいと思います<sup data-fn="b53ff2af-bf9f-4753-a6f8-035b228bc102" class="fn"><a href="#b53ff2af-bf9f-4753-a6f8-035b228bc102" id="b53ff2af-bf9f-4753-a6f8-035b228bc102-link">2</a></sup>。</p>



<p>上記コメントに対しては、＜裁判所が決定する前であっても、どのような行為が犯罪に当たるのか、何罪に当たるのかということは法律で決まっているはずであるから、弁護士も判断できると考えることには何の問題もない＞と考えた方もいるかもしれません。しかし、上記コメントには、簡単に斥けることができない含蓄があります。例えば、ルール懐疑主義の立場からすると、弁護士は、裁判所が決定するよりも前に、「○○罪です。」と断定することはできません。</p>



<p>ルール懐疑主義とは、法に関する不可知論です。論者として最も有名なのは、アメリカ合衆国の最高裁判所裁判官であったオリバー・ウェンデル・ホームズでしょう。ホームズによれば、法学とは、「裁判所が実際には何をするのかの予測」にすぎません（法予言説）<sup data-fn="3e4c2a6f-b05f-4051-abc7-97d01937de4d" class="fn"><a href="#3e4c2a6f-b05f-4051-abc7-97d01937de4d" id="3e4c2a6f-b05f-4051-abc7-97d01937de4d-link">3</a></sup>。ルール懐疑主義者は、裁判所の判断に先立って定められており、裁判所を拘束するような法的基準は存在しないと考えます。裁判所は判決理由において法律から事案に適用される個別具体的規範を導出＜＝法発見＞したかのように仮装していますが、実際には、裁判官が各々の利害関心に従って法であるところを決定＜＝法創造＞しているに過ぎないというわけです。</p>



<p>ルール懐疑主義を前提とすると、弁護士は、＜裁判所は有罪と言いそう＞とか、＜裁判所は侮辱罪に当たるという判決をすることはほぼ確実です＞といった予測をすることはできるかもしれません。しかし、裁判官以外の一般市民の法的判断は将来の判決の予測に過ぎないため、弁護士は＜有罪である＞という断定することはできないということになります。</p>



<p>このようなルール懐疑主義は、法形式主義の否定です。法形式主義は、法律の文言の定義と、法的三段論法などの論理的操作とにより、あらゆる事案に関して法律からその事案に対して適用すべき法を発見できるという考え方です。これに対して、ルール懐疑主義者は、法形式主義と違って、裁判所の判断が法律から論理的に導出されるとは考えず、法はそれを創造する裁判官の心理から予測するしかないものと考えます。実際に日本の裁判においては、違憲無効・限定解釈や類推適用・拡張解釈などにより、＜裁判所の判断に先立って法律に定められていた＞とは思えないような基準に従って判決がされることもあります。実際の裁判実務は、法形式主義者が想定するほど単純ではありません。</p>



<p>そうすると、ルール懐疑主義にも一理あると思われるかもしれません。</p>



<h2 class="wp-block-heading">法実証主義</h2>



<p>現在の日本でも、法専門家が、＜法的三段論法こそ、法的思考の基本である＞などと言うことはよくあります。しかし、法専門家の間で、法形式主義が無批判に受け入れられているというわけではありません。他方で、法専門家の間でルール懐疑主義が広く受け入れられているわけでもないと思われます。現在の日本の法専門家の間で、自覚してか否かはともかく、広く受け入れられているのは、法実証主義という考え方です。法実証主義者は、法形式主義と違って、法律の文言の定義と論理的操作により、すべての事案について、形式的に個別具体的規範が導出できるとは考えません。かといって、ルール懐疑主義者と違って、裁判所の判断を拘束するものは何もないとも考えません。</p>



<p>代表的な法実証主義者であるH.L.A.ハートは、こたけ正義感先生と同じく、競技ゲームの例を用いてルール懐疑主義を批判しています<sup data-fn="b99de627-57bd-4a51-b614-72f2a9599118" class="fn"><a href="#b99de627-57bd-4a51-b614-72f2a9599118" id="b99de627-57bd-4a51-b614-72f2a9599118-link">4</a></sup>。ハートは、＜いかなる場合に得点となるか＞という＜得点に関するルール＞と、＜得点記録員が得点を記録し、それに対しては不服申立てできない＞という二次ルールのゲームを考えます。このようなゲームにおいても、得点となる場合かならない場合かということについて意見が対立する場合があることは想像に難くありません。しかし、このゲームに関し、ルール懐疑主義者がいうような〈得点とは記録員がそうだというものだ〉という考えを受け入れると、それは〈得点とは記録員がそうだというものだ〉というルールに基づく別のゲームでなってしまいます。なぜなら、「得点に関するルールにも、他のルールと同様、記録員が選択を行い得る綻びが周縁にあるものの、それでも意味の確定した核心部分があるから」です<sup data-fn="2a208e35-e925-4640-876b-3eaae0de1336" class="fn"><a href="#2a208e35-e925-4640-876b-3eaae0de1336" id="2a208e35-e925-4640-876b-3eaae0de1336-link">5</a></sup>。＜記録員が、得点に関するルールの核心部分を無視して、得点を決めることができるというルール＞によるゲームは、もはや＜得点に関するルール＞によるゲームではありません。</p>



<p>ハートは、競技ゲームの例のルールと同じく、法律の文言にも綻び（open texture：開かれた構造）があり、裁判官が法を発見しうるほどに意味が明確な核心（core）の部分と、裁判官が法を創造しなければならないほど意味が曖昧な周縁（penumbra：半影）の部分に分かれると考えます。この考え方からすると、法形式主義と異なり、法律の文言の核心部分に当たらないが、周縁部分には当たるという場合、裁判所が法創造を行うことを認めることができます。また、ルール懐疑主義と異なり、すべての事案で裁判官が法創造を行っており、法律に従っていると言えるような場合はないとまで考えなくともすみます。</p>



<p>さて、ハートのような法実証主義の立場からすると、刑法２３１条の「侮辱」のという文言の意味である＜（事実の適示を伴わずに）他人の社会的評価を低下させる行為＞という定義には核心部分があり、＜他人にバカと言う行為＞は核心部分に当たるということになります。そのため、上記コメントに対しては、裁判所による法創造を待たずして、弁護士などの一般市民が「侮辱罪に当たる」と判断することは問題ないと反論できることになりそうです。</p>



<p>……本当にそうでしょうか？</p>



<h2 class="wp-block-heading">核心部分の曖昧さ</h2>



<p>そもそも、法律の文言の意味が明確な核心部分と、意味が曖昧な周縁部分はどのように区別されるのでしょうか。さきほど、＜他人にバカと言う行為＞は、「侮辱」という文言の核心部分に当たるとしました。＜他人にバカと言う行為＞が「侮辱」に当たるということは、現在の判例理論を前提とすると間違いありません。しかし、法律の文言から一義的に明らかであるとは言えません。</p>



<p>侮辱罪の保護法益については、主観的名誉感情か、外部的社会評価かという学説の対立があります。保護法益に応じて、「侮辱」の定義も、＜名誉感情を害する行為＞と、＜社会評価を低下させる行為＞とのいずれであるのかが変わってきます。この点については、学者だけでなく、最高裁判所の裁判官の間でも、かつては見解が分かれていました。著名な刑事法学者であり、最高裁判所の裁判官でもあった団藤重光は、侮辱罪の保護法益について主観的名誉感情説を支持する個別意見を書いています<sup data-fn="f444814d-85c8-4cc6-9a23-002cd0ce504a" class="fn"><a href="#f444814d-85c8-4cc6-9a23-002cd0ce504a" id="f444814d-85c8-4cc6-9a23-002cd0ce504a-link">6</a></sup>。また、外部的社会評価であるとしても、それは、事実的名誉か、規範的名誉かという点についても学説の対立があります。かつての最高裁判所の裁判官や刑法学者は、刑法２３１条の「侮辱」という文言について、意味が明確な核心部分すら分からずに争っていたのでしょうか。</p>



<p>また、侮辱罪の保護法益は、外部的社会評価であり、かつ、事実的名誉に限られるとすると、＜事実として社会一般からバカだと思われている人にバカだという行為＞は「侮辱」に当たらないということになります<sup data-fn="a467561d-58a2-441d-b717-9ff76d584844" class="fn"><a href="#a467561d-58a2-441d-b717-9ff76d584844" id="a467561d-58a2-441d-b717-9ff76d584844-link">7</a></sup>。例えば、「おバカタレント」として売り出している芸能人に＜バカという行為＞は、「侮辱」の意味の核心部分であるはずなのに、「侮辱」に当たらない可能性があるということになります。</p>



<p>以上のように、「侮辱」の文言についての学説が対立していることや、核心部分に当たるはずの＜他人にバカと言う行為＞が「侮辱」に当たらない場合がありうるということは、＜法律の文言には意味が明確な核心的部分がある＞というハートの想定が正しいのかという疑念を抱かせます。</p>



<p>法律の文言の意味の明確性について、ロナルド・ドゥオーキンという法哲学者は、＜制定法の文言が曖昧であるのは、解釈のきっかけではなく、結果である＞と主張しています。すなわち、「ある法律が不明確であるというのは、競合する二つの解釈のそれぞれに説得力がある論拠がある場合だけである」としています<sup data-fn="60bf92ce-5718-49f2-8c06-eef4ec860254" class="fn"><a href="#60bf92ce-5718-49f2-8c06-eef4ec860254" id="60bf92ce-5718-49f2-8c06-eef4ec860254-link">8</a></sup>。</p>



<p>「侮辱」の例でいえば、「侮辱」という文言の意味について争いが生じるのは、文言の多義性や抽象性によるものでありません。外部的社会評価説よりも名誉感情説やその他の主張に強い政治道徳的論拠があると考えるとき、または、事実的名誉説よりも規範的名誉説を支持すべき正当化理由があると考えられるときなどに、外部的社会評価説や事実的名誉説による「侮辱」の定義の自明性が失われるからです。</p>



<p>このように、意味が明確なはずの核心部分についても意味が曖昧になる場合があるとすれば、結局、ルール懐疑主義を斥けることはできないということになるのでしょうか。これに対し、ドゥオーキンは、裁判官が法実務を構成的に解釈すると、ルール懐疑主義を斥けることになると主張します。</p>



<h2 class="wp-block-heading">解釈主義</h2>



<p>法の構成的解釈とは、法実務には強制を政治道徳的に正当化するという目的があると想定し、ある行為をその目的に照らして法実務の最良の一例として提示することです。ドゥオーキンによれば、法実務を含む社会的実践の構成的解釈は、三段階に分かれます。①前解釈的段階として、解釈の対象となる社会的実践を特定します。②解釈的段階として、社会的実践の主要部分に適合し（適合性の次元）、それを正当化する最良の政治道徳的理論を構成します（正当化の次元）。③後解釈的段階として、適合性の次元で参照した社会的実践の一部を例外として排除したり、または、正当化の次元で構成した政治道徳理論からすると新たな社会的実践が要求されているとして、法実務の見直しや修正を行います<sup data-fn="fcdb71f5-0fce-463f-b185-05baa1b8c33e" class="fn"><a href="#fcdb71f5-0fce-463f-b185-05baa1b8c33e" id="fcdb71f5-0fce-463f-b185-05baa1b8c33e-link">9</a></sup>。</p>



<p>＜ある行為が侮辱罪に当たる＞という言明を例に考えてみます。①前解釈的段階として、日本社会における強制を正当化することを目的とした社会実践を特定します。日本社会では、国会や地方議会による法律や条例の制定や裁判所による裁判などとして法実務をすぐに特定できます。</p>



<p>②解釈的段階として、侮辱に刑事罰を科すことを定める刑法２３１条といった制定法や、侮辱罪に関する裁判例を含む上記法実務に適合し、侮辱を刑罰の威嚇により抑止するという心理的強制をよりよく正当化する政治道徳理論を構成します。このような政治道徳理論には、様々な政治道徳的原理が含まれる可能性があります。例えば、刑法２３０条の２のような、公益目的の表現に関する免責規定がない侮辱罪において名誉感情を保護することは、自由な表現を民主主義の前提として保護する表現の自由の原理に反すると考えることもできます。また、諸個人が、自ら人生の計画を建て、それを遂行する可能性を保障すべきであるとする幸福追求権の原理からすると、人間関係の形成や維持、ひいては人生計画（結婚や就職など）に影響を与えるのは事実的名誉であるから、事実的名誉こそ保護すべきと考えることもできるでしょう。刑罰が人権に対する重度の制約となることを考えれば、社会的評価の毀損が軽微である場合には侮辱に当たらないとする比例原則も考慮に値します。</p>



<p>これらの諸原理は、憲法２１条（表現の自由）や憲法１３条（幸福追求権）、憲法３１条（実体的デュー・プロセス；比例原則）にそれぞれ規定されていると考えられていますので、適合性の次元の問題としてとらえることもできます。しかし、重要であるのは、これらの諸原理を含む政治道徳理論（自由民主主義）が、ある行為を刑罰の威嚇により抑止することをよりよく正当化するということです。したがって、上記の規定が憲法改正により削除されたとしても、これらの諸原理を法実務を正当化する政治道徳理論の一部として構成することが妨げられるわけではありません。（そもそも、適正手続きの保障を定める憲法３１条が、犯罪と刑罰の均衡という実体法上の原則である比例原則を規定していると考えることには、無理があります。）</p>



<p>③後解釈的段階としては、名誉感情ではなく外部的評価を保護すべき、規範的名誉でなく事実的名誉を保護すべきという政治道徳理論を見直して、政治道徳理論や法実務を修正する必要性を考えます。例えば、名誉を考えるときには、名誉感情であれ社会的評価であれ、個人の名誉であることを前提としてきました。しかし、現代ではヘイトスピーチなどに対応するために集団の名誉というものを保護法益とする立法が検討されることもあるでしょう。また、社会的評価が低い人が侮辱にさらされたままになることは、その人が社会的地位を向上させることを諦めさせ、人生計画を構想する可能性を奪うことになりかねません。そうすると、事実的名誉のみを保護法益とすることが、かえって幸福追求権の原理に反すると考えることもできます。そのような場合には、規範的名誉も名誉の下限については保護法益となりうるとしてこれまでの裁判例を変更すべきともいえます<sup data-fn="77ca21ee-399d-4cec-b832-355dfe688b5f" class="fn"><a href="#77ca21ee-399d-4cec-b832-355dfe688b5f" id="77ca21ee-399d-4cec-b832-355dfe688b5f-link">10</a></sup>。</p>



<p>＜ある行為が侮辱罪に当たる＞という言明は、以上のような構成的解釈をとおして、＜ある行為を刑罰の威嚇により抑止することが、法実務に最良の正当化理由を与える政治道徳理論により支持される＞ということを表明するものです。このような判断は、ルール懐疑主義者がいうように、法律の文言から形式的に導出できるものではありません。しかし、ルール懐疑主義者の想定と異なり、裁判官が何らの制約も受けずに法を創造しているわけでもありません。構成的解釈は、従前の法実務の主要部分と適合するという制約を受けます。（また、このことにより、自然状態から政治道徳理論を構成する自然法論とも構成的解釈は区別されます。）</p>



<p>以上のような構成的解釈としての法的判断には、法実務及び政治道徳に関する諸理論について広い知識が必要となります。しかし、法創造を行うわけではないので、裁判官のような権限は必須ではありません。法知識の量や構成的解釈の熟練度により精度は変わってくるとしても、弁護士資格がない一般市民にも可能であると言えるでしょう。弁護士を含む一般市民の法的判断は、構成的解釈によるものと理解することで初めて、ルール懐疑主義を斥け、裁判官による法創造の予測ではなく、裁判官によるものと同じ法的判断と考えることができるということになるのです。</p>


<ol class="wp-block-footnotes"><li id="be6f7ff0-f15b-4635-8c39-7eca4ab1c85b"><a rel="noopener" target="_blank" href="https://www.youtube.com/watch?v=Fu_HnyDWKY4">こたけ正義感のギルティーチャンネル、「リーガルチェックに面白いコメントついてた」（２０２５年６月２６日）</a> <a href="#be6f7ff0-f15b-4635-8c39-7eca4ab1c85b-link" aria-label="脚注参照1にジャンプ">↩︎</a></li><li id="b53ff2af-bf9f-4753-a6f8-035b228bc102">なお、判決の主体は、官署としての「裁判所」ではありませんが、訴訟法上の「裁判所」です。 <a href="#b53ff2af-bf9f-4753-a6f8-035b228bc102-link" aria-label="脚注参照2にジャンプ">↩︎</a></li><li id="3e4c2a6f-b05f-4051-abc7-97d01937de4d"><a rel="noopener" target="_blank" href="https://en.wikisource.org/wiki/Harvard_Law_Review/Volume_10/The_Path_of_the_Law">Oliver Wendell Holmes, Jr. &#8220;The Path of the Law&#8221; <em>Harvard Law Review</em>, 10.8 (1897): pp.457–478</a>, p461 <a href="#3e4c2a6f-b05f-4051-abc7-97d01937de4d-link" aria-label="脚注参照3にジャンプ">↩︎</a></li><li id="b99de627-57bd-4a51-b614-72f2a9599118">H.L.A. ハート＝著、長谷部恭男＝訳、『法の概念〔第３版〕』２０１４年（原著初版１９６１年）、筑摩書房、２２８頁以下 <a href="#b99de627-57bd-4a51-b614-72f2a9599118-link" aria-label="脚注参照4にジャンプ">↩︎</a></li><li id="2a208e35-e925-4640-876b-3eaae0de1336">H.L.A. ハート＝著、長谷部恭男＝訳、『法の概念〔第３版〕』２０１４年（原著初版１９６１年）、筑摩書房、２３１～２３２頁 <a href="#2a208e35-e925-4640-876b-3eaae0de1336-link" aria-label="脚注参照5にジャンプ">↩︎</a></li><li id="f444814d-85c8-4cc6-9a23-002cd0ce504a"><a rel="noopener" target="_blank" href="https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50303">最一決昭和５８年１１月１日 刑集３７巻９号１３４１頁</a> <a href="#f444814d-85c8-4cc6-9a23-002cd0ce504a-link" aria-label="脚注参照6にジャンプ">↩︎</a></li><li id="a467561d-58a2-441d-b717-9ff76d584844">前田雅英他編『条解刑法〔第５版〕』２０２５年、弘文堂、７１３頁参照 <a href="#a467561d-58a2-441d-b717-9ff76d584844-link" aria-label="脚注参照7にジャンプ">↩︎</a></li><li id="60bf92ce-5718-49f2-8c06-eef4ec860254">Dworkin, Ronald. <em>Law&#8217;s Empire</em><em>,</em> Hart Publishing 1998(1986). Print. p352 <a href="#60bf92ce-5718-49f2-8c06-eef4ec860254-link" aria-label="脚注参照8にジャンプ">↩︎</a></li><li id="fcdb71f5-0fce-463f-b185-05baa1b8c33e">Dworkin, Ronald. Law&#8217;s Empire, Hart Publishing 1998(1986). Print. pp65-66 <a href="#fcdb71f5-0fce-463f-b185-05baa1b8c33e-link" aria-label="脚注参照9にジャンプ">↩︎</a></li><li id="77ca21ee-399d-4cec-b832-355dfe688b5f">前田雅英他編『条解刑法〔第５版〕』２０２５年、弘文堂、７１３頁参照 <a href="#77ca21ee-399d-4cec-b832-355dfe688b5f-link" aria-label="脚注参照10にジャンプ">↩︎</a></li></ol>]]></content:encoded>
					
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